しゃっきりばあちゃん
こんにちは。今日は雨のお彼岸中日・春分の日です。
春分は古くは一年のうちで農作業が始まる一番最初の年のはじめとされてきました。
日本でも日を願う、ひがんだったのが仏教伝来と組み合わされてお彼岸という故人を偲び弔う風習が誕生したのでした。
私はというとなんだか朝から義理の祖母のことが思い出されて仕方がないのでちょっと祖母の思い出を書いてみようかと思います。
***
私の祖母の名前はモミさんと言いました。
今となっては種籾のモミなのか、樅の木のモミなのかわかりませんが、モミさんは大正時代に山口県の萩市というところで7人兄弟の長女として生まれたのです。
長じて看護婦の資格をとって医者について中国の大連に渡り、看護婦の傍ら当時の娘さんらしくお休みには繁華街に遊びに行って、帰りに中国人車夫の俥を使い、日本人居住区の手前で織降りて車夫に賃金を払わなかったり(当時中国人は日本人居住区の中に入れなかった・悪いことです)お転婆な少女時代を送りながら、郷里萩に残した幼い弟妹に仕送りしていたそうです。
戦争が終わる少し前、大連から帰国して縁があって、広島県呉の海軍士官と結婚。一女をもうけましたが、旦那さまの海軍士官は軍艦乗りで第二次世界大戦の激戦で戦死、幼い子供を連れてモミさんは萩へ帰ることになったのです。
しかし人間一寸先の事はわからないというかなんというか。
モミさんは萩へ帰省する道中汽車の中で「岡山に後添えを必要としてる農家の男がいる。子供連れでもいいからあんた嫁に来ないかね?」とオファーをもらい、「農家に嫁げば米が腹いっぱい食える!」とはるばる岡山県の中央部、標高400M近い高原地帯に嫁に来たのでありました。
さて。そこで待っていた農家の男とは私の祖父。
この祖父は当時としては稀有な人で、モミさんはなんと3人目の後添えさんでありました。
最初の嫁さんは離縁、2番めの嫁さん(この人が私の父親の母親)と病気で死別。そして運の良いことに3番目の後添いとしてやってきたのがモミさんだったのです。
モミさんは慣れない農家で血のつながらない息子(父)を育てながら頑張りました。
もともと負けん気の強かったモミさん、農作業だけでなく内職としてミシンを踏んで、家計の助けだけではなく、頑張って頑張っていくばくかは自分の好きなものも手にすることができていたようです。
義理の息子が長じて嫁(母)をもらい、これで楽隠居出来ると踏んでいたかどうかわかりませんが、父は酒乱でしたので母と折り合いが悪く、度々離れに住んだ祖父とモミさんに仲裁に入ってもらうなど、いつまで経っても心配で手のかかる義理の息子(父)なのでありました。
さて。
月日は流れモミさんも老人の域に入った頃、ドハマリしたのがゲートボール!
ゲートボールでも負けん気が強いとこが出て練習三昧で、県大会で入賞するほどの腕前になっておりました。
孫の私とゴルフ中継の番組を見て「私も若ければゴルファーになって負けてないかもしれん」と、目をキラキラさせながらのたまっておりました。
そんなしゃっきりばあさんですから、趣味の某宗教の新聞配りも80歳手前になってもしゃかりき歩いて村中に新聞を配っていました。
そんなある日、同じ村内のおっさん(私の同級生の父です)の運転する軽トラに跳ね飛ばされて入院してしまいました。
怪我は肝臓破裂で絶対安静。なんとか一命はとりとめたのですが歩行困難になり要介護となってしまったのです。
そして家族会議の結果(祖父はとっくに他界しておりましたので)老人ホームに入所してもらうことになりました。
亡くなるまでも10年余り老人ホームで過ごしたモミさんですが、たまに面会に行くと車椅子での生活とは言うもののクラブでもレクリエーションも楽しみ、入所者や職員さんとのコミニュケーションも良好で、それなりにホームでの生活を満喫されていたようです。
そんなある日、仕事中の私のもとに妹からモミさん死去の連絡が入りました。
旅立ちの前の火、入浴を済ませ、ご飯も美味しく全部食べて「ごちそうさまありがとう」と、ホームの職員に告げてから、翌日起こしに行くと、眠るようにその一生を閉じていたそうです。
まさしくモミさんらしい大往生ですよね。
ホームから白い霊柩車?でモミさんが実家に戻ってきまして、お葬式は実家から出すことに相成りました。
其のお通夜の晩。
私、母、妹、叔母(モミさんの実子)はモミさんが寝てる八畳間の続きの六畳で仮眠をとっていたのですが、真夜中。
「ちーん ちーん」
誰もいないのにモミさんの枕元のお輪が二度なりました。
「・・・かーちゃん、今の聞こえた?」と私
「・・・だれか参りにきたんじゃろうなあ」と母
先になくなった祖父か、それとも同じくこっちにモミさんと一緒にお嫁に来て先に旅立った友人のおばあちゃんなのか。
特に怖いとも思わず不思議だなーと思ったことを覚えています。
うちは祖父の代からS会に入信してしまっていたのでモミさんの葬儀も友人葬でした。
読経が流れる中、私はなんかものすごーい睡魔に襲われて前のめりになりながら必死で座っておりましたらぐぐっとヴィジョンの中に引き込まれていきました。
大きな軍艦が港に入って白い海軍服を着た将校さんが織りてきてモミさんの手を取って船で出航していったのです。
お葬式が終わって母に其の話をすると
「それは多分一番最初の婿さんじゃな。やっぱり長年連れ添った祖父よりも、女は一番最初の男がいいと言うことなんじゃろうな」と、ロマンチックなようななんだか身もふたもないような話をされました。
それからもう20年近く経ちまして、モミさんは今も実家の山の中にあるお墓、祖父母の夫婦墓の隣に独立したお墓の中(生前からそうするとモミさんが決めた)に眠っています。
血のつながった祖母は祖父の2番めの嫁さんですが、父が小学生の頃亡くなったので私は顔も知らないのです。
なので、私にとっての祖母はモミさん一人なのでした。
今年のお彼岸も、懐かしさと感謝を込めてモミさんにもしっかりと手を合わせようと思います。
感謝合掌。
吉野 拝
春分は古くは一年のうちで農作業が始まる一番最初の年のはじめとされてきました。
日本でも日を願う、ひがんだったのが仏教伝来と組み合わされてお彼岸という故人を偲び弔う風習が誕生したのでした。
私はというとなんだか朝から義理の祖母のことが思い出されて仕方がないのでちょっと祖母の思い出を書いてみようかと思います。
***
私の祖母の名前はモミさんと言いました。
今となっては種籾のモミなのか、樅の木のモミなのかわかりませんが、モミさんは大正時代に山口県の萩市というところで7人兄弟の長女として生まれたのです。
長じて看護婦の資格をとって医者について中国の大連に渡り、看護婦の傍ら当時の娘さんらしくお休みには繁華街に遊びに行って、帰りに中国人車夫の俥を使い、日本人居住区の手前で織降りて車夫に賃金を払わなかったり(当時中国人は日本人居住区の中に入れなかった・悪いことです)お転婆な少女時代を送りながら、郷里萩に残した幼い弟妹に仕送りしていたそうです。
戦争が終わる少し前、大連から帰国して縁があって、広島県呉の海軍士官と結婚。一女をもうけましたが、旦那さまの海軍士官は軍艦乗りで第二次世界大戦の激戦で戦死、幼い子供を連れてモミさんは萩へ帰ることになったのです。
しかし人間一寸先の事はわからないというかなんというか。
モミさんは萩へ帰省する道中汽車の中で「岡山に後添えを必要としてる農家の男がいる。子供連れでもいいからあんた嫁に来ないかね?」とオファーをもらい、「農家に嫁げば米が腹いっぱい食える!」とはるばる岡山県の中央部、標高400M近い高原地帯に嫁に来たのでありました。
さて。そこで待っていた農家の男とは私の祖父。
この祖父は当時としては稀有な人で、モミさんはなんと3人目の後添えさんでありました。
最初の嫁さんは離縁、2番めの嫁さん(この人が私の父親の母親)と病気で死別。そして運の良いことに3番目の後添いとしてやってきたのがモミさんだったのです。
モミさんは慣れない農家で血のつながらない息子(父)を育てながら頑張りました。
もともと負けん気の強かったモミさん、農作業だけでなく内職としてミシンを踏んで、家計の助けだけではなく、頑張って頑張っていくばくかは自分の好きなものも手にすることができていたようです。
義理の息子が長じて嫁(母)をもらい、これで楽隠居出来ると踏んでいたかどうかわかりませんが、父は酒乱でしたので母と折り合いが悪く、度々離れに住んだ祖父とモミさんに仲裁に入ってもらうなど、いつまで経っても心配で手のかかる義理の息子(父)なのでありました。
さて。
月日は流れモミさんも老人の域に入った頃、ドハマリしたのがゲートボール!
ゲートボールでも負けん気が強いとこが出て練習三昧で、県大会で入賞するほどの腕前になっておりました。
孫の私とゴルフ中継の番組を見て「私も若ければゴルファーになって負けてないかもしれん」と、目をキラキラさせながらのたまっておりました。
そんなしゃっきりばあさんですから、趣味の某宗教の新聞配りも80歳手前になってもしゃかりき歩いて村中に新聞を配っていました。
そんなある日、同じ村内のおっさん(私の同級生の父です)の運転する軽トラに跳ね飛ばされて入院してしまいました。
怪我は肝臓破裂で絶対安静。なんとか一命はとりとめたのですが歩行困難になり要介護となってしまったのです。
そして家族会議の結果(祖父はとっくに他界しておりましたので)老人ホームに入所してもらうことになりました。
亡くなるまでも10年余り老人ホームで過ごしたモミさんですが、たまに面会に行くと車椅子での生活とは言うもののクラブでもレクリエーションも楽しみ、入所者や職員さんとのコミニュケーションも良好で、それなりにホームでの生活を満喫されていたようです。
そんなある日、仕事中の私のもとに妹からモミさん死去の連絡が入りました。
旅立ちの前の火、入浴を済ませ、ご飯も美味しく全部食べて「ごちそうさまありがとう」と、ホームの職員に告げてから、翌日起こしに行くと、眠るようにその一生を閉じていたそうです。
まさしくモミさんらしい大往生ですよね。
ホームから白い霊柩車?でモミさんが実家に戻ってきまして、お葬式は実家から出すことに相成りました。
其のお通夜の晩。
私、母、妹、叔母(モミさんの実子)はモミさんが寝てる八畳間の続きの六畳で仮眠をとっていたのですが、真夜中。
「ちーん ちーん」
誰もいないのにモミさんの枕元のお輪が二度なりました。
「・・・かーちゃん、今の聞こえた?」と私
「・・・だれか参りにきたんじゃろうなあ」と母
先になくなった祖父か、それとも同じくこっちにモミさんと一緒にお嫁に来て先に旅立った友人のおばあちゃんなのか。
特に怖いとも思わず不思議だなーと思ったことを覚えています。
うちは祖父の代からS会に入信してしまっていたのでモミさんの葬儀も友人葬でした。
読経が流れる中、私はなんかものすごーい睡魔に襲われて前のめりになりながら必死で座っておりましたらぐぐっとヴィジョンの中に引き込まれていきました。
大きな軍艦が港に入って白い海軍服を着た将校さんが織りてきてモミさんの手を取って船で出航していったのです。
お葬式が終わって母に其の話をすると
「それは多分一番最初の婿さんじゃな。やっぱり長年連れ添った祖父よりも、女は一番最初の男がいいと言うことなんじゃろうな」と、ロマンチックなようななんだか身もふたもないような話をされました。
それからもう20年近く経ちまして、モミさんは今も実家の山の中にあるお墓、祖父母の夫婦墓の隣に独立したお墓の中(生前からそうするとモミさんが決めた)に眠っています。
血のつながった祖母は祖父の2番めの嫁さんですが、父が小学生の頃亡くなったので私は顔も知らないのです。
なので、私にとっての祖母はモミさん一人なのでした。
今年のお彼岸も、懐かしさと感謝を込めてモミさんにもしっかりと手を合わせようと思います。
感謝合掌。
吉野 拝
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