セッション例 不思議な真夜中の儀式
ずっと以前知り合った方なんですがソの方仮にAさんとします。
Aさんは自分の徳を積むために有ることを行ってますと私に仰いました。
それは何かと聞いてびっくり
「真夜中の3時に部屋で線香を炊いて不成仏霊を集めて煙に乗せて送る」
そうでその慈悲の心と善行により自分の徳が上がるのだとか。
どなたにその方法をお聞きになったのですか?と尋ねたら大寺院の御坊様ですと答えられました。
しかしながら霊視してみたところAさんの周りはどす黒く曇り確実に
「寄せるだけであの世に送れてない」状態。
それをAさんに告げると
「そんなはずはない!大寺院のお坊さんが教えてくれた自分の徳を上げるための近道なんだから!」
と聞く耳を持ちませんでした。
「それでは何故あなたは自分の徳を上げたいのですか?」
と尋ねたところ明確な答えは帰ってきませんでした。
「Aさん、野良犬に例えるとしましょう。犬たちをおいでおいでと自分の狭いウチに招いたとしましょう。
そこには餌も水もありません。
犬たちの中には病気の犬もいるでしょう、そしてあなたは獣医ではなく素人です。
素人療法でも傷や空腹を癒すならば其れでいいのですが見たところ
あなたは犬たちを癒せ図、常に不満げな犬たちを引き連れてる状態です。
それではあなたの体調その他の運気も下がっているのではないですか?
乾きを癒さず体を癒さず、何かしてくれると期待している犬たちに
あっちに移動しなさい、あっちにはおまえたちの望むものが用意されてるよ
と言って理解があるでしょうか?
理解がある犬はいいんです、困るのは理解のない犬なんですよ。
大寺院の御坊様は癒す方便をご存知です。
形ばかり御坊様と同じことをされても犬たちに恨まれるばかり。
よくよくお考えになってお辞めになったほうがよろしいですよ」
Aさんの体を取り巻く状態と共にそうお伝えしました。
その時Aさんはこう仰言ました。
「仏の慈悲というものはもっと心優しく平等なものだと思ってました」
確かに仏の慈悲は広遠無比なものですがそこに「我欲のために」が入ると
せっかくの志が無駄になるとおもうのです。
心優しく平等なものであったとしても
それにつけ込むものも現実にも非現実にも存在するのです。
その理想と現実の自覚なしでは仏ではない
肉体を持つ私たちには慈悲の実行は難しいのではないでしょうか。
(慈悲心とは又違います)
あと「夜中の3時に線香を炊いて不成仏霊を無理やり集める」
というのも身勝手で自己都合だと解釈せざるを得ません。
本当に成仏したがっている霊は
こちらが意識しなくてもその時々
絶妙なタイミングで寄ってきて?助けを求めます。
Aさんのそれは昨今の熊騒動で
「熊はかわいいから殺すな」
そう声高に仰る人たちの何ら代わりはなかったのではないかと思います。
自分の都合だけで考えず相手の都合も考える、
その最低限のルールは生きている私たちも眼に見えない世界でも一緒なのではないでしょうか?
その後Aさんとお会いすることがないので今彼女がどのような常態か全くわかりません。私もAさんとの出会いで
色々と考えさせられ教えられることが沢山ありました。慈悲心というものは持たないよりはもつ事に越したことはありません。その点でそれに気がついたAさんはなにより素晴らしいと思います。でも使い方を迷ってしまったらAさんだけでなく私も含め人間はとんでもないことになると思うのです。
そのあたりちょっと子育てにも似てるかもしれないですね。願わくば現在のAさんが本当の徳を積まれる人生を歩んでいかれることを願ってやみません。
Aさんは自分の徳を積むために有ることを行ってますと私に仰いました。
それは何かと聞いてびっくり
「真夜中の3時に部屋で線香を炊いて不成仏霊を集めて煙に乗せて送る」
そうでその慈悲の心と善行により自分の徳が上がるのだとか。
どなたにその方法をお聞きになったのですか?と尋ねたら大寺院の御坊様ですと答えられました。
しかしながら霊視してみたところAさんの周りはどす黒く曇り確実に
「寄せるだけであの世に送れてない」状態。
それをAさんに告げると
「そんなはずはない!大寺院のお坊さんが教えてくれた自分の徳を上げるための近道なんだから!」
と聞く耳を持ちませんでした。
「それでは何故あなたは自分の徳を上げたいのですか?」
と尋ねたところ明確な答えは帰ってきませんでした。
「Aさん、野良犬に例えるとしましょう。犬たちをおいでおいでと自分の狭いウチに招いたとしましょう。
そこには餌も水もありません。
犬たちの中には病気の犬もいるでしょう、そしてあなたは獣医ではなく素人です。
素人療法でも傷や空腹を癒すならば其れでいいのですが見たところ
あなたは犬たちを癒せ図、常に不満げな犬たちを引き連れてる状態です。
それではあなたの体調その他の運気も下がっているのではないですか?
乾きを癒さず体を癒さず、何かしてくれると期待している犬たちに
あっちに移動しなさい、あっちにはおまえたちの望むものが用意されてるよ
と言って理解があるでしょうか?
理解がある犬はいいんです、困るのは理解のない犬なんですよ。
大寺院の御坊様は癒す方便をご存知です。
形ばかり御坊様と同じことをされても犬たちに恨まれるばかり。
よくよくお考えになってお辞めになったほうがよろしいですよ」
Aさんの体を取り巻く状態と共にそうお伝えしました。
その時Aさんはこう仰言ました。
「仏の慈悲というものはもっと心優しく平等なものだと思ってました」
確かに仏の慈悲は広遠無比なものですがそこに「我欲のために」が入ると
せっかくの志が無駄になるとおもうのです。
心優しく平等なものであったとしても
それにつけ込むものも現実にも非現実にも存在するのです。
その理想と現実の自覚なしでは仏ではない
肉体を持つ私たちには慈悲の実行は難しいのではないでしょうか。
(慈悲心とは又違います)
あと「夜中の3時に線香を炊いて不成仏霊を無理やり集める」
というのも身勝手で自己都合だと解釈せざるを得ません。
本当に成仏したがっている霊は
こちらが意識しなくてもその時々
絶妙なタイミングで寄ってきて?助けを求めます。
Aさんのそれは昨今の熊騒動で
「熊はかわいいから殺すな」
そう声高に仰る人たちの何ら代わりはなかったのではないかと思います。
自分の都合だけで考えず相手の都合も考える、
その最低限のルールは生きている私たちも眼に見えない世界でも一緒なのではないでしょうか?
その後Aさんとお会いすることがないので今彼女がどのような常態か全くわかりません。私もAさんとの出会いで
色々と考えさせられ教えられることが沢山ありました。慈悲心というものは持たないよりはもつ事に越したことはありません。その点でそれに気がついたAさんはなにより素晴らしいと思います。でも使い方を迷ってしまったらAさんだけでなく私も含め人間はとんでもないことになると思うのです。
そのあたりちょっと子育てにも似てるかもしれないですね。願わくば現在のAさんが本当の徳を積まれる人生を歩んでいかれることを願ってやみません。
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