霊能者 吉野真琴のブログ

霊能者 吉野真琴のブログ

父方は源氏・母方は平家それぞれの血を引く霊能者。神職や僧を多く排出した由緒正しい家系に生まれ、およそ30数年の修業を経て霊能者・スピリチュアルコンサルタントになる。神界・天界・霊界に通じ龍神界とも深い縁を持つ。コンサルタント歴10年。地元岡山県はもとより広島・大阪・京都に多数のクライアントを持つ。50代。
父方は源氏・母方は平家それぞれの血を引く霊能者。神職や僧を多く排出した由緒正しい家系に生まれ、およそ30数年の修業を経て霊能者・スピリチュアルコンサルタントになる。神界・天界・霊界に通じ龍神界とも深い縁を持つ。コンサルタント歴10年。地元岡山県はもとより広島・大阪・京都に多数のクライアントを持つ。50代。

吉野の軌跡3

「この体質から逃れられないのならせめて人様のお役に立ちたい」
そう決意してからの私は、懺悔と先祖供養への祈りと神仏様へのご挨拶に明け暮れました。
丁度親友のMちゃんが車で動ける時期でしたのでMちゃんと一緒に
思いつく限りのお互いの行きたい所・・・中国四国近畿の霊場や神社仏閣霊地を
何年か掛けて回らせていただきました。

中でも個人的にこの時期伊勢を出発としての元伊勢巡りを
させていただいたのが印象に残っています。

あちこち巡らせていただいているうちに
「今まで私は神仏混交修験道においては仏の勉強を重点的にさせられてきたなあ。今度は神様の勉強をさせていただきたいなあ」とぼんやりと思っておりました。

そしてある日、夢のなかで「かごめかごめ」という歌とともに図形を見せられたのです。
何のことかさっぱりとわからなかった私は月間ムーの文通広場(当時は個人情報もゆるい時期でしたので^^;)に問いかけとともにこの謎を解いてくださる方からの連絡を待ちました。
連絡をしてくださる方の中には手紙で、と断っているにもかかわらず出会い目的のふざけたおっさんが住所から電話番号を調べて電話をしてくることも有りました。
いただくお手紙の中には色々な情報を寄せてくださる方もいらっしゃいましたがピンと来ないなあという日々が続きました。
その中でとても丁寧で自分の考えを押し付けないお手紙が有りました。
そのお手紙の主に導かれるように、私はとある経綸神事を行っている団体にご縁が出来ました。

経綸神事とは、大本教の出口王仁三郎氏や日月神示が有名なのですが
大和政権に寄って隠された古の地球の元の神様が時により姿を変えて教派神道や新宗教の神として蘇り、ソレは連続性をもつ、という誠にSFのような怪奇小説のような漫画のような(?)世界のお話でした。
今現在の最先端の神様が神示と言う形で世にみことのりを降ろされる、という団体さんで私は神様の経綸ということを学ばせていただきました。
先の元伊勢巡りはこの団体につながっていたようです。

こちらで熱心に学ばせて頂いて2年位でしたでしょうか。
やはりこちらでも少し無理難題を押し付けられて自分の思う形とは違うんだな、とその団体を後にしました。

そして神と仏の両道を学ばせていただいた私は自己流の行を行わせていただくことになりました。

知らぬ間に磨かれてきた私は当時口コミで相談を受けていたのですが
忙しさに紛れ、又生きることに必死で仕事(当時は交通誘導の警備員を10年していました)してましたので持病の糖尿病が悪化したことに気が付かなかったのですね。
そしてとうとう私は倒れてしまいました。それが8年前です。

倒れ伏して仕事に行くことも出来ず追いつめられて悶々としながら私は
「ああ、もしやこれは人のお役に立つ時節が来たということなのか」と独り立ちする決意をしました。
そして地元出身の古代豪族楽々森彦に因んで「楽々乃森(ささのもり)」と言う屋号をつけたサイトを開設したのでした。

おかげさまで現在なんとかお仕事をさせていただいておりますが
持病の糖尿病の方は手遅れになってしまったので、現在人工透析を受けております。

しかしながら病身とはいえ色々な方に支えられ、神仏様から加護もいただき生き活かしていただいている。
このことに感謝の念は尽きると思います。

透析を始めてからも何度か命の危険もありました。
お腹に腫瘍ができて婦人科の手術もしました。
が、いずれも事後良好で腫瘍については良性で転移の心配もありません。

こんな私でも活かして頂いて人様のお役に少しでも使っていただける。
そのことに感謝しつつ今日も生かされております。

願わくば死ぬ間際まで神様に使っていただけますようにと吉野の軌跡を終わります。

完結まで読んでいただきありがとうございました。

吉野 拝

吉野の軌跡1

私が生まれたのは1965年10月24日の13時半ごろ。
しかしながら記憶(前世)をさかのぼりますと
紀元前の海に沈んだ大陸の、小さな漁村からが始まりのようです。
今のインドネシア海のあたり、地学的に確認された
海に沈んだ大陸「スンダランド」がありました。

その辺りの小さな漁村に生まれました。
そこに産まれるまでの前世の記憶は残念ながら残っていませんが
温かい海に抱かれていた記憶が残っています。

それからアジアあたりを中心に100〜200年スパンで
転生を繰り返し、1965年10月24日に今世の生を受けたのです。

生まれた場所は吉備高原の中央辺り。
父親は源氏の流れをくむ京都からの移住者であろう血筋(未確定)
母親は広島の平家の隠れ里の血筋(確定)という
世にも珍しい因縁の家に生まれました。

赤子の私には、赤子だった頃のことを長じて覚えていたという
変わった幼少期でした。
赤子の頃乳母車に乗った私をあやしてくれる父母に対して
「親って大変だねー」という大人のような感想を持ったのを覚えています。

母に言わせると私赤子の頃から
疳の虫の強い子供だったらしく
エキセントリックで周囲を困らせていたそうです。

ところが。
そんな保育園時代のことはよく覚えているのですが
小学校に上がった頃から2年ほどの記憶が曖昧なのです。
周囲の人や当時の担任からは
ちょっと目を放した好きに何処かへ消えて
いつまでたっても戻ってこなくて心配させた、とお聞きしました。
あるときは誰も居ない学校のプールサイドで
一人遊びをしていたりというのですが
全く記憶に無いのです^^;
多分目に見えない者達が遊び相手だったのだろうと思います。

後年になって霊能者と呼ばれる人間の中には
そういう子供時代を送った人が多いらしいと知りました。

人というものは異質な存在は排除しようと反応するのが
普通の反応ですから子供の頃から変わっていた私は
当然のようにいじめられました。
そして家では、私が物心ついた頃より
父親は酒乱で母親は自己愛の強い人でしたので
子供の私たち(私には妹がひとりいます)に手は挙げないものの
夫婦間ではDV上等当たり前!な家庭でした。
小学校ではいじめられ家庭ではDVという、考えてみたら
人生ハードモードな環境でしたねえ。
当時は図書館の本だけが楽しみで
学校に通っていたようなものでした。

そんな中、後々40年来の付き合いになるMちゃんという
女の子と知り合いました。
Mちゃんの家も母子家庭で相当苦労していて、また
私と同じようにMちゃんもいじめの被害者でした。
私とMちゃんはいじめられっこ同士身を寄せ合うように
学生生活を送ったものです。

今でこそいじめを受ける側は霊的に見て
自分の持っている業(因縁)を減らすための試練と
解釈しているのですが当時は本当に辛かったです。

このMちゃんと私は当時流行っていた学研の「ムー」がきっかけで
見えない世界の虜になり、UFOと宇宙、心霊現象、謎の遺跡etc
どっぷりハマって夢中になって夢物語を語り合いました。

Mちゃんと私は2歳違いでしたのでMちゃんは高校を卒業と同時に
看護学校に進学、私は一人取り残され・・・めちゃくちゃ荒れまくりましたw

まず、朝起きて行ってきますと家を出てMちゃんの家に直行。
Mちゃんのお母さんも公認で、学校にいくMちゃんとお仕事に行く
Mちゃんのお母さん、そして住居に下校時間まで居座る私。
学校と家、居場所のない私の格好の隠れ家だったと思います。

そんなこんなの生活で高校は欠席日数が3年間で
180日(途中整形外科の病気入院も含む)に登りましたっけ。

さすがに高校の担任も訝しんで家に連絡されて
隠れ家生活は終了。その後遅ればせながらも
親に対する反抗&反撃が始まりました。
娘から親への家庭内暴力、です。

毎日がバトル、喧嘩上等で母親にはビシバシと殴られましたっけ^^;
そして親の金を盗んでは家出を繰り返して居ました。
最初の家出は奈良県の天理市。事情を聞かずに家に泊めてくださった
電車で知り合った加古川のお姉さん、飛び込んだ天理の施設の信者さんで
説得してくださって岡山まで送ってくれたおじさん。
今考えると時代も良かったのでしょうが、親切な方たちに
恵まれて有りがたかったと思います。

2回めの家出は京都。こちらは夏場で大変熱く
お金がないのでユースホステルに泊まったのですが
当時はクーラーもなかったため暑さマケしてギブアップ。
自分から家に連絡して岡山から京都まで親に迎えに来てもらいました。
最高にかっこわるい青春の一幕ですね^^;

そんなこんなで補修に補修を重ねて高校を無事卒業。
就職は寮のある会社を選びやっと実家と縁が切れたわけです。

続く。
プロフィール

プロフィール

名前:吉野真琴(芸名)

性別:女

昭和生まれの五十代です。

活動地は岡山、京都、他。



だいたい一月に一度お茶会を開く他

聖地や神社仏閣の「霊能者と巡るスピリチュアルツアー」の

ガイドをやっています。

お茶会ではプチ霊視や、ツアーでは神様仏様からのメッセージを参加者にお伝えしたり、頂いたエネルギーを最大限にして参加者に受け取っていただいたりしています。



生まれは岡山県のほぼ中央の高原地帯です。

古代遺跡の烏帽子岩(磐座)のある家で生まれ

およそ300年続く家系は代々お坊さんや尼さんを排出した家系

《いずれも修験系だと思われます)で、

地元の八幡宮様とも縁が深く古くから苗字帯刀を許されていた家の末流に生まれました。



子供の頃から霊能力に目覚め、長じてからは魂の過去世の流れと肉体的な家系の流れを受けた我が身の宿命を知りました。



19の頃から本格的に修行を始め、中国近畿四国地方の聖地神社仏閣をめぐること三十年。その間無償で知り合いからの相談を受けつつ20回以上職を転々とし、45歳までは道路交通警備員として10年間、猛暑や極寒の野外で仕事をして生活をしていました。

社会勉強だけはしっかりとさせて頂き我ながら社会人としては一般常識を失うことj無く鍛えられたと思います。



が、無茶な生活が祟り持病が悪化。

「社会人として会社に属して働くサラリーマン」を諦めざるを得なくなりました。

そんなギリギリの状態で背中をどんどんと上の存在から「どつかれて」

霊能者の道に入ることになりました。



今までオファーが在ったのは

30歳の頃学ばせていただいた経綸神業の団体から岡山支部の同乗の責任者「宮持ち」にならないか、というのを始め、ほうぼうの拝み屋さんに出会う度「あとつぎに」とオファーが来ることも少なくありませんでした。



お会いした教派神道の教祖様からもお誘いがあったのですが

吉野は根っからフーテンなものでw型にはめられるのはゴメンだとお断り続けていたのでした。



◇人生と言う物はどなた様でも決して平坦な道を歩く物では無いと思っております。
人は十人十色。お悩みも十人十色にそれぞれお持ちだと思います。
凹凸の激しい人生の道はくじけて、立ち止まって考えて気付が付いて、
そして歩き出すの連続。それで当然だと私は思ってます。
でも、中には乗り越える壁や谷が高すぎたり深すぎたりして、
ご自身の弱さを責める方もいらっしゃると思いますが、それは違うのです。

くじけても良いんです。
 立ち止まっても良いんです。
 辛くて、心が空っぽになっても良いんです。

そこに「気付く」と言うことがあれば、空っぽになった心に
 新しく、暖かな思いを一つ一つ又詰め込んで行けばいいんです。

又幸せに向かって歩き出せるんです。

「ご自身が気づくこと、そして行動すること」これが本当の癒しに繋がると私は思います。